国司信濃親相公について

国司家第21代当主。 贈 四位 禄高 5,425石5斗4升8合

国司家について

国司家は、その先祖は天武天皇からでており、始め高階(たかしな)の姓を賜り高(こうの)氏を名乗った。
即ち室町幕府の高師直(こうのもろなお)につながる家系で足川尊氏の重臣であった。

国司家の初代は師武(もろたけ)である。師武は高師泰(もろやす)の次男である。
高氏は足利に仕えていたのであるが、事の起こりから足川家と不和になり、抗争が勃発、高軍は全滅に至ったのである。
一方、師泰の次男師武は、国司庄にあって、父師泰にも従わず、足利家にも従わず中立を守っていた。
というのも、師武が安芸国高田郡国司庄(今の広島県高田市吉田町国司)領給となったのは、
尊氏の弟の直義の兄尊氏への取りはからいによるもので、それゆえ父師泰の足利家との抗争を苦々しく思っていたからであった。

戦い終わり、尊氏の弟足利直義から、師武は招請を受けたが、病の故をもって出仕せず。
しかし領地の保有は許された。
ここに及んで師武は先祖伝来の高の姓は用いず、藤原(この藤原は遠祖筑前守成佐が藤原保昌との親子関係を結んだことによる)の姓を用い、称号としては両地名 国司を用いたのである。国司家の始まりである。

さて当時同郷 高田郡に毛利師親(もろちか)が領主とし居を構えていた。
師親は師武(もろたけ)の元服親であり、禄高の相違等よりおのずから主従関係が生じ、国司師武は毛利師親に仕えることとなってくるのである。
時は下り、関が原に端を発する毛利氏の防長移封に伴い、師武以来260余年のゆかりある領地を捨てて周防國佐波郡徳地邑の枝郷伊賀地(いがじ)へ移領となるのである。
毛利家は輝元、国司家は元蔵(もとぞう)の世である。
この世代は毛利氏が長州藩主として基礎を固める時代であった。

この元蔵の徳地所領は9代元蔵一代で終わり、毛利藩内一斉知行改めが行われ、国司家は10代就正(なりまさ)の世、寛永2年、長門国厚狭郡万倉へ替地され万倉の領主となるのである。
このようにして国司初代師武と毛利師親に始まった主従関係は500年の長きに亘って変わらず毛利67代、13代の藩主慶親(よしちか)の世、国司家第21代となったのが国司信濃であった。

このようにして、国司家は、始祖師武以来毛利氏に仕え、足利時代から戦国動乱の世を経て、徳川初期に至るのであるが、
封建制度下初代藩主秀就(ひでなり)によって寄組の班列に属した。こうして、国司家は永代家老家につぐ藩の名門に属し、家禄も寄組中、高禄であった。

因みに禁門の変で、共に自刃する福原越後、益田右衛門介は一門八家の出である、一門八家とは長州藩の家臣団の永代家老の家系で、宍戸家、右田毛利家、厚狭毛利家等である。
一門八家に続き一族(岩国吉川家)、そして寄組(国司氏、山内氏、志道氏等、約60家あったといわれる)。
寄組に続き大組となり、かの高杉晋作の高杉氏を始め、玉木氏、などは大組に当たる。

国司家が万倉の領主になって、信濃親相まで約230年が流れるのである。


国司信濃親相公の生い立ち等

寄組藩士・高洲平七元忠(所在地 現 萩市平安古(ひやこ))の次男として天保13壬寅(みずのえとら)年(1842)生まれ、幼名丑之助(うしのすけ)。
また徳蔵、熊之介とも称した。初宮は氏神の春日神社に参詣。6歳で同じく寄組藩士5,600石の国司亀之助迪徳(みちのり)の養嗣子となり、6歳で家督する。
その際、6歳を7歳と申し出ており、以後実年齢より1歳多く語られる。
安政2年元服の折、熊之助朝相(ともすけ)と名を改める。
後に願い出て信濃朝相(ともすけ)と改めたが、毛利慶親(よしちか)公より一字賜り親相と改める。

親相15歳で結婚。妻は和喜子(後の弥佐子、戸籍名サヤ)。資質は雅馴(がじゅん)、詩歌、画を嗜み雅号は蠖斎(かくさい)。
親相は文武共優れ、和歌も能くし、若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、文久元年(1861)大組頭に、文久3年に老中に任ぜられた。
また赤間関防備総奉行を仰せつかるなどその才覚により、家老職に着いたのである。
22歳文久3年には長井雅楽(うた)の切腹検視役正使を務めている。
親相が領主として初めて万倉に着任したのは万延元年(1860)19歳であった。
しばらく居館し、九郎五郎(現 黒五郎)に赴き大日峠で砲発の調練を行っている。これらは攘夷の声の高いときであり、馬関出陣に供えての事であった。

嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航してより、我が国は混迷をきわめ、攘夷、開港の両論となったが尊王と佐幕が交錯し。攘夷は尊王、開港は佐幕と結ばれ二つの勢力が生まれた。
長州藩内は尊王攘夷論が沸騰。文久3年5月10日、信濃は久坂玄瑞らと共にアメリカ船ペンブローク号を砲撃し、下関海峡を封鎖(馬関戦争勃発)、朝廷からも褒勅の沙汰があった。この功績により、信濃は赤間防備総奉行に任じられる。

しかし8月18日の政変・・・・防長2藩の尊王攘夷論は、政権横奪の野心があるとの理由で、佐幕派である京都守護職、松平容保(たかもり)らは、長州に反目していた薩摩と、図り、毛利藩父子の入京を拒絶、長州兵が行っていた京都堺町御門の警衛を解かれ、長州兵の退京が図られた事件・・・・に対し親相は、朝廷に対し冤罪復職を哀訴嘆願した。しかし国内情勢混沌とし、険悪多端。長州藩は苦境に追われながらも藩主の英明と有能多志のよろしきを得、京都発進論と纏まった。
結果、益田右衛門介兼施(かねのぶ)や福原越後元|(もとたけ)、さらに久坂玄瑞らと共に冤罪を晴らし、京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、禁門の変となるのである。しかし薩摩藩・会津藩連合軍の前に大敗し、帰藩した。

この禁門の変の際、長州軍の砲弾が禁裏に及んだとされ、「史上いまだかってなき暴挙」とまで譴責(けんせき)された。
これは攻撃の目標、松平容保の本営が禁裏と隣接していたため、結果禁裏に砲弾が及んだのであるが、やがて第一次長州征伐が始まる。
総大将に徳川慶勝、参謀に西郷隆盛が就任した大軍が長州に押し寄せてくる。いずれにしても、勝てば官軍であるが、長州は敗れた。
かくして戦乱を起した敗軍の責を負わざるを得なくなったのである。

親相は、誰よりも責任を感じ、死をおもうていた。元治元年7月「はかなくも風の前なる燈火(ともしび)の、消ゆることのみ待つ我が身かな」との嵯峨天龍寺(京都)において詠んでいる一首にそのことが偲ばれる。
最善の引責の方法を藩主の命によって決したいとの一念で、玉砕を避けあえて生還。帰路山口にて須佐に帰る益田と、たもとを分かち親相はさびしく万倉領の居館に帰りついたのである。
時は元治元年8月5日である。そして7日。親相は、万倉の居館をあとに幽囚の旅立ちとなったのである。
その旅立ちに当たり、親相は、「跡たれて君をまもらむみどりそう 万倉の山の松の下かげ」 と決死の意を読み置いている。
8日、親相は徳山澄泉寺にて幽囚の身となったのである。
親相は死期の到来を知ると、早馬を万倉領の若一王子社(現、廣矛神社と称す)に走らせた。それは神前に預け置いた藩主より拝領の一刀で、切腹したかったのである。

切腹当日、親相の切腹は益田に続いて行われ、支度相調い介錯は国司助次郎。懐より辞世を取り出し三方の上に乗せ、自刃。
時は11月12日丑の上刻(午前1時すぎ)親相23歳。すぐさま、御首級は、広島に護送、寺町の国泰寺において尾張総督の実検に供し、遺体は万倉蓬莱山天竜寺(廣矛神社の西)へ御家来衆に守られ帰館。
同所に埋葬。後日首級も広島よりお伴して合葬された。

辞世の句 「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽(つく)さばや」 
安政5年9月「君がため 尽せや尽せ をのが此の いのち一つを なきものにして」 君のために尽くしても尽くしきれない私のこの命であり、ひとりの命であるが投け出そうではないか。このほとばしりを感ずる2首は、感動を誘う句である。
享年23歳。(満年齢で22歳5ヶ月)

墓所は宇部市万倉の天龍寺。妻と並んで墓石が建っている。法名 積翠院殿応道義大居士。
慶応元年、国司家22代純行(すみゆき)氏が (親相の養子 健之助)が居宅の上山に、霊社として美登理神社を建立。ご神体は常用されていた佩刀(はいとう) 関乃志津三郎兼氏(かねうじ)の刀剣。
後慶応3年、天龍寺の親相墓所の西ま向いにあたる土井の垰に招魂祠を建立。以後、大東亜戦争までの殉国の志士の英霊を祀り、垰招魂場として護持。平成18年、万倉護国神社境内西に遷座を行った。
万倉護国神社奉賛会による、4月12日 春の「さくらまつり」、8月9日 夏の「みたままつり」 万倉遺族会による 11月12日 「墓前祭」が斎行され、国司信濃公を始め204柱の殉国の志士の御霊を慰霊(供養)が行われている。

死後の明治21年靖国神社合祀。明治24年贈正四位。
現在、院展で活躍されている画家 国司華子さんは、国司信濃公の曾孫に当る。

家紋は「輪違い紋」、即ちふたつ以上の輪が組み合っている形をしている。輪違いはリングの連鎖だからいくらでも増やせるが、多くは二つの輪である。、「この世はひとりで生きることは難しい。ふたり以上互いに組んで生きてゆくこと」を意味する。

司信濃親相公を直接知る人はいない現在であり、その面影を偲ぶには口伝による他はない。
血気美丈夫の青年領主、鋭敏果敢な大組頭。老中に任じられてよりは家老職である。
その家老職でありながら、領民に対してはまことに情味ゆたかで、隔意のない領主であったと伝えられている。

西万倉伏付の某家に領主時代の親相についての口伝が残っている。伏付は直接には国司家の領地ではなかったが、当時街道筋にあたり、居館より往還の際は、必ず伏付を通った。
親相は決して土下座またはそれに類することは要求しなかった。何時も駕籠の垂れは巻き上げて、出会う農民に対し、「農事に精をだすように」笑顔で励ますことを忘れなかったと言われている。
現代風習からいえば、語るに足らないことであろうが、 武士万能の世である。

「お若くりっぱで優しい領主様であった。勿体(もったい)のうて---」伝える人の実感は知ることが出来ないまでも、かの幽囚の旅立ちに当たり、「駕籠に召され出で立ち給う、そのときの別れの悲しさは----」と絶句した老婆のことをおもえば、親相がこの万倉に寄せる思いが頷(うなず)かされる。

その領主親相は、23歳の身をもって、元治の嵐に散り果てた。愛する万倉に魂を留めると詠みおいて。


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